【自己紹介】おとなしくて引っ込み思案だった半生をまとめた記事

【自己紹介】おとなしくて引っ込み思案だったわたしの半生を暴露する記事

こんにちは、みなみです。

今回はいつもの記事とは違って特別です。

わたしの半生をつづる完全に独りよがりの内容になってますので、つまらないと思います(笑)

なので、よほどわたしに興味のある方以外は(笑)スルーしてくださいね。

プロフィール的な記事も一つくらいあった方がよいと思い、どうせならガッツリ書いてみようと思いました。

わたしはどんな人間なのか?

1971年3月生まれで、埼玉県の南部に住んでる一児のパパです。

わたしの属性

名前

見並圭一(みなみけいいち)です。「見並」って珍しい字ですよね?

両親が三重県の伊勢出身で、三重県には比較的多い苗字のようです。

職業

ふたつあります。

ひとつ目は、教育ベンチャー企業の共同経営者。ふたつ目は、いわゆるライスワークとして食べるためにフリーでSEをやっています。

性格

おだやかで優しそうだと人からはよく言われます。

たしかに自分でもエネルギッシュでバイタリティ溢れる性格とは思ってませんので、おおむね当たってると思います。

もともと、おとなしくて引っ込み思案な性格です。でも、仲がよくなり心の距離感が近づくと人懐っこい性質が出てくるときもあります。

基本的に人目を気にするタイプなので無意識でかなり神経を使ってることが多いです。

出身地

東京都の足立区です。

正確な出生地は千葉県の柏なんですが、幼稚園に入る前に引っ越したので柏のことは全く覚えていません。

なので、こういった自己紹介では足立区出身と言うようにしています。

家族

妻と子の3人で暮らしています。

結婚式は、奈良県の大神神社で。。出産は、映画「うまれる」の中に登場する助産師、伊深先生に取りあげてもらいました。

前にも結婚していたことはありまして、バツイチです。

趣味

なんでしょうね?(笑)自分でもわからないです。

昔なら草野球とかスキーとか言ったんですけど、結婚して子どもができてからは全くやってませんし、強いて言えば子どもと遊ぶことくらいでしょうか。あとは、このブログのように文章を書くことは大好きです。

好きなこと

複雑をシンプルにするのが大好きです。

おそらく、このポイントにハマればなんでも好きです。

文章も、プログラミングも、システムを設計することも、あと知識は全くありませんけど、哲学や科学(数学・物理学)も好きです。この世界の真理を探究する共通の世界観は究極のシンプルだからです。

わたしの半生(7段階で)

わたしの半生を生命のリズム(7段階)に沿ってつづっていこうと思います。

7段階はあんまり気にしなくていいです(笑)なにかの法則性に当てはめてみたくなる、それこそわたしの趣味みたいなものですので。。

【根】中では甘えん坊、外では孤独

わたしは、幼稚園~小学2年生の夏休みまでは足立区の西新井というところに住んでいました。西新井大師のすぐ近くです。

家の中は安心安全の天国

父は自転車の部品屋さん(卸売)に勤めていて、母は専業主婦。両親と姉の4人暮らしでした。

母はとても優しい人で安心の存在でした。わたしはいつも母のヒザの上に乗っかり甘えていました。抱っこしてもらったり、おんぶしてもらったり、いつでもわたしの味方でいてくれる安心の居場所です。今でも母の肌感覚はよく覚えています。

父はそんなに優しくはないですけど、めちゃめちゃ厳しくもなく、まぁ普通ですかね。子どもみたいな人です。

とにかく、わたしにとって幼いときの家庭環境は、母に抱っこしてもらってるときと同じ、安心安全の空間でした。

甘えたいときに甘えられて、言葉に出さなくてもわたしの心を察してくれる、めちゃめちゃリラックスできる最高の楽園です。

母に抱っこされているわたし

家の外では孤独になる地獄

その後、幼稚園や小学校に通うようになるわけですが、わたしにとっては家がなによりも幸せな場所のため、学校には行きたくありませんでした。

おとなしくて引っ込み思案で前に出ることなど全くない性格です。

ちょっと怖い友達とか、きびしい先生とかの前ではよく萎縮していました。なんせ家の中ではそんな状況はありえないわけですからね。

わたしは家の外では萎縮してしまい、みずから孤独な状況をつくり出すことが多いです。

下の写真は幼稚園に入った頃に撮ってもらったもので、顔は普通にしてますけど内心は不安でいっぱいでした。

幼稚園のころの写真

【茎】不安と緊張と多汗症

わたしは表現することが苦手といいますか、なにをするにも人よりワンテンポ遅れるところがあるので、スピード感が必要な今の時代に生きていくことはなかなか難しいタイプの人間です。

不安だった高校受験

中学生になると高校受験を意識するようになります。わたしは勉強ができなかったので不安になりはじめました。

それと、うちはずっと団地住まいであまり裕福な家庭とは言えず、子どもなりにお金の心配もしていました。

うちには私立の学校に行かせてもらう余裕なんてないから、私立はあきらめて都立だけを受験しようと決め、さらに不安になりました。

そして、この頃からわたしは自閉症なのかというくらい、ほとんど家族と会話をしなくなりました。今度は家の中で孤独をつくり出したわけです。

わたしは塾にも通っていなかったので、ひたすら部屋にこもって勉強をしました。

結果的には無事合格できたのですが、このときは本当に孤独な闘いでした。だれに甘えることもできず、独りで壁を乗り越えなければならない経験でした。

このときの受験番号 229(ふーふー苦しむ)は今でもよく覚えています(笑)

多汗症になる

不安と緊張の極めつけは多汗症という形で現われました。

わたしは「手の平」と「足の裏」と「鼻の頭」にやたらと汗をかくようになり、あきらかにまわりの友達とは違います。

テストの答案用紙はいつも汗でびっしょりになり、ハンカチを用意しないと字もかけないほど汗が出るようになりました。

汗というのは意識すればするほど余計に出るものでして、そうなるとたとえば、握手することを避けたり、手をつなぐことを避けたり、行動に制限がかかってしまいます。

今では全く気にしなくなりましたが、思春期から20代までの頃はわたしにとって最大の悩みでした。本気で手術をしようと考えたこともあります。(副作用が出ると聞いたのでしなかったですけど)

【葉】初心に立ち戻ることで突破する

わたしは苦しいときなど、限界が訪れると孤独な環境を自分でつくり出します。そして、初心に立ち戻ることで突破しようとします。

これを表す象徴的なエビソードがあります。

小学3年生のとき、わたしは算数の授業についていけなくなったことがありました。

ただ、そのときの担任(女性)がとてもよい先生で、母と三者面談をして、わたしに小学1年生の算数からやり直すよう提案をしてくれました。

算数ドリルを使って初心に立ち戻り、やり直したおかげで、わたしはクラスのみんなに追いつくことができました。

小さなことですけど、わたしにとってこの成功体験は自信になりました。なにがあっても焦らずに、初心に立ち戻ることで限界はかならず突破できる。

なので、わたしは今でも「限界」→「孤独」→「初心」→「突破」のパターンを繰り返してることが多いです。

【花】仕事よりもまず彼女がほしい

高校を卒業して、わたしは社会に出ました。

なにをするにもワンテンポ遅れるわたしからしたら、まだまだ社会に出るための心の準備はできていません。しかし、大学に行けるほどの頭はないし、専門学校に行けるほどのお金もうちにはないので仕方なく社会に出ました。

それに工業高校だったことも大きいです。学校内には進学する雰囲気など全くなく、卒業後は就職するのが当たり前でした。

とは言え、まだ10代ですから、遊びたい年頃でもあります。

奥手な性格で、かつ、工業高校には女子がいなかったこともあり、わたしには彼女がいませんでした。

仕事よりもまず彼女がほしいという気持ちのほうが、はるかに大きいわけです。

ナンパばかりしていた

そこで、わたしはなにをしたのかというと、友達の影響もあって街でよくナンパをするようになりました(笑)←極端

わたしを知る人は、おそらくみんな驚くと思います。(この事はほとんど話してませんし)

引っ込み思案なわたしからしたら、それこそ勇気をふり絞る世界なんですけど、でもやっぱり女の子と遊びたいじゃないですか?(笑)その意思のほうが勝ったわけです。ここで孤独になる戦法を使っていたら彼女はできませんから(笑)

それとおそらくですが、そんな風に気軽に声をかけられる別人になりたいという変身願望はあったと思います。なので、かなり無理はしてたと思うんですが、でもまぁ、あのときは楽しかったですよ。まさに花の時代でした(笑)

ちなみに、そんな努力もあって彼女はできました。

【実】プログラミングの楽しさを知る

就職をして、わたしはCADのオペレーターになりました。

なりゆきでCADオペになったのがきっかけ

工業高校では製図の授業というのがあり、わたしは図面を書くのがなぜか得意でした。(当時はまだ手書きで図面を書く時代だった)

「みなみの書いた図面は線が生きている」なんて先生によく言われました。

とは言え、ただ線を書いてるだけで、ぜんぜん頭は使ってないんですけど、それでも唯一、就職先を決める判断基準になったわけです。

図面を書くのが上手なら、なにかを設計する会社に行こうと思い、たまたま選んだ会社(当時は超売り手市場だった)で、わたしはプラントの設計図を書く仕事に就きました。そして、時代とともに手書きの製図からCADに移行していったのです。

自動作図プログラム

CADには自動作図プログラムというのがあり、わたしは気が付いたらプログラミングを勉強するようになっていました。

まわりの同僚や先輩はそんなことには関心がないようだったので、となりの電算室にいる詳しそうな人をつかまえて、わたしは勝手に自動作図のプログラムをつくりはじめました。

なにせ、仕事の効率が大幅にアップするわけですし、みんなのためにもなる。しかも、まわりはみんなプログラムになんて関心がない。ということは、わたしの存在価値が増すわけです(笑)やらない理由はありませんでした。

それに自分のつくったプログラムがちゃんと動くことは、なんとも言えない喜びがあります。

わたしは本当に必要だと思ったら、プログラムであれ、彼女であれ、孤独をつくることなく勝手に動き出す性質も持っているようです。(これを書いてて思った)

とにかく、わたしはその頃から夢中でプログラミングをするようになりました。そして、プログラマーになりたいと思いはじめました。

CADオペレータ時代のわたしの写真

ソフトウェア業界への転職

プログラマーになりたいと思っても未経験でしたし(今、考えれば、充分経験してたんですけどね)学歴もないので転職は難しいかなと思い、情報処理の資格を取ることにしました。

高校受験のときもそうでしたが、わたしは試験の類は本当に苦手でして、人の倍以上、努力しないと結果が出せないんです。

まわりにはプログラムを教えてくれる人はおらず、自分で本を買って、C言語とかCASL(情報処理試験用のアセンブラ言語)をよく勉強していました。

おかげさまで一回目は落ちましたけど、二回目でギリギリ受かることはできました。

【種】苦しくも凝縮していたSE時代

わたしは社員20名くらいのソフトウェア会社に転職をしました。

プログラムや設計は楽しかったけど

当時はまだインターネットがやっと世の中に浸透しはじめた頃です。

HTMLやExcelマクロ、Access などをはじめとし、VB、Perl、C言語、Java、くわえてSQLも大好きなので、それらの言語を使ってプログラマーとしての仕事に没頭しました。

仕事は大変でしたけど、最初の1~2年くらいまでは気持ち的にはとても充実していました。残業とか関係なかったですね。ずっとやってても苦にならなかったです。

しかし、3年目以降になるとただプログラミングをするだけではなく、だんだんと人をマネジメントする立場に変わっていきます。

つまり、技術よりも人間関係が重要になってくるわけです。

どん底だった時期

仕事内容もプログラムは若い人にまかせて、わたしはシステム設計やマネジメント中心になります。ここでもわたしは設計すること自体は楽しかったです。

しかし、自分の目の行き届く範囲の小さいシステムであればうまくいくのですが、大きいシステムになればなるほどうまくいきませんでした。

組織には当然いろんな人がいますし、取引先にもいろんな人がいます。わたしの苦手なタイプの人もいるわけで、そうなるとすぐに萎縮して孤独をつくってしまう、わたしのクセも出やすくなるわけです。回しきれずにひとりで仕事を抱え込むことが多かったです。

また、それまで同棲していた彼女と結婚もしたのですが、すぐに離婚をし、同時期に母の死も重なるなど、いろんなことが全てうまくいかなくなった時期でもありました。35歳のときです。

毎日、終電の時間まで働いて土日も出社して、今思えばウツだったのでしょう。苦しまないで死ねるのなら楽だよなって思うことはしょっちゅうありました。

本質を突き詰めて、突破する

わたしは、この頃からなぜ仕事をするのか? なぜ生きるのか? という本質的な問いを追求するようになります。

とことん初心に立ち戻ろうとしたわけです。そうすれば、かならず突破口はみえるはずだと。

本質的な問いを追求すると必然的に、自分は何者なのか? この宇宙はなぜ生まれたのか? という究極の質問に辿り着きます。

普通の人は、そんなことを考えるよりも現実でお金を稼ぐことを考えます。

しかし、わたしにとってこの究極の質問に対する答えは、生きていく上でだれがなんと言おうとも外せないポイントでした。

もちろん、わたしはお金儲けがあまり上手ではないので、そのことも作用してると思います。しかし、どう考えても究極の質問に対する答えがわからないのは、なにもわかってないのと同じです。

それはわたしにとってどうしても知りたいことであり、本当に必要なものでした。

そして人間関係が一気に拡がる

そんなことを考えるようになってから、わたしの人間関係に変化が訪れました。

ちょうどTwitter が流行り出した頃です。

SNSの力もあって、わたしは共通の社会問題に関心のある友達がたくさんできるようになりました。

それまでは、友達なんて年に一度、会うか会わないかのナンパばかりしてた頃のヤツらしかいませんでしたからね。人間関係は一気に拡がりました。

それと、当時の社長はいろんな学びにも行かせてくれました。

有名な成功哲学のセミナーや企業研修、またそこからの繋がりで哲学を学ぶ場にもよく足を運ぶようになり、人間力のある質のよい友人知人がどんどん増えていきました。

このときの人間関係の拡がりは、わたしにとって決定的な変化をもたらすことになります。

【間】認識技術との衝撃的な出会い

質のよい人間関係が一気に拡がったことで、わたしは nTech(認識技術)に出会います。

本当の問題(ミッション)に出会う

2012年5月5日、今のわたしの人生の主軸といってもよいnTech(認識技術)のイベントに参加し、韓国人のNohJesu(ノ・ジェス)という人に出会いました。

ノさんは、nTech(認識技術)の開発者であり、今は令和哲学者という肩書きでも活動しています。

nTech(認識技術)とは、今までの科学技術の限界をおぎない、哲学との融合を果たせるめちゃめちゃ奥が深い技術です。そして、その入り口はこのブログでもたびたびご紹介している人間共通の脳の認識のクセ(脳の観点)を理解すること。そこからはじまります。

脳の観点こそが、ウツ、自殺、殺人、戦争 など、さまざまな人間関係の問題を引き起こしている原因です。

ということは、その問題を解決することでどれだけの人の幸せに貢献できるのか? それを考えただけでもわたしはワクワクしました。

人間がいまだに開発開拓したことのない未知なる領域のブルーオーシャンが無限に広がってるわけです。

これこそが、人生をかけて取り組むべき「根本問題」だと思いました。

この人は本気だ!

そして、なによりもノ・ジェスという人が本気であること。それがいちばん印象的でした。この人はウソをついていない。本気でやろうとしている。

わたしは、なにをやっても鈍いところがありますけど、物ごとの本質やポイントをつかむ能力は優れてると思っています。

今思えば、この日にわたしの人生は反転していたのです。

感動したポイント

人生をかけて取り組むべき「問題」に出会ったわたしは、その後、nTech(認識技術)とは、どういうものなのか、気になって仕方がありませんでした。

なので、まずは、nTech(認識技術)の内容を受け取ってみようとセミナーを受講しました。

その内容をここでお伝えすることは難しいですし、残念ながら、それを受け取るだけの素地が今の人間にはありません。なので本来であれば、ある程度の日数をかけて順を追って理解していく世界になるため、ここではわたしが感動したポイントだけをお伝えします。

自分と自分がみているこの世界(宇宙)は実在しないこと

つまり、われわれは錯覚の世界の中、ゲームの中にいるアバターのようなものだということ。この辺りの話は量子力学とか、イーロンマスクなども似たようなことを言っているので、うなずいてくれる方もいると思います。

実在とは、”動き” であること

究極の質問に対する答えを「存在」のイメージで認識しようとすると、永遠にそこには辿り着けません。つまり「存在が動く」のではなく「動きが存在っぽくみせている」という認識のパラダイム転換が必要だということ。われわれは、壮大なパラパラ漫画の中にいるのと同じです。

ちなみに、世の中で結果を出してる人は、行動(動き)を重視すると思います。そのレベルの ”動き” とは全く次元の異なる動きですけど、法則性は同じです。すなわち、本当のわたし(実在)とは、”動きそのもの” だと言うこと。

ビッグバンは一回だけではなかったこと

われわれは脳を基準にして、物ごとを「存在」として捉えているため、宇宙は138億年前に一回だけ誕生したイメージを持っています。しかし、一回だけではなく、今この瞬間にもビッグバンは無限に発生しています。理論物理学の最先端、M理論では、1秒間に10の500乗個の宇宙が生滅を繰り返してると言いますから、その計算結果とも繋がる話です。

源泉的な”動き”とは「日本」そのものであること

詳細はセミナーの中でお伝えしてますので、ここではあえてひと言だけ。それは「間」です。間の文化は日本にしかありませんから、西洋(科学技術)の限界をおぎなうことができるのは日本(認識技術)しかありません。

「1」を規定していること

今の数学は「1」を規定できていません。「1」とはなにかがわからないのです。なぜならば、この現実は「2」の世界(錯覚の相対世界)だから。「2」のパラダイム(脳の観点)から物ごとを観察している限り、永遠に答えには辿り着けません。かと言って、宗教のように「神」という概念を用いて、無理やり「1」を規定するのにも限界があります。「1」と「2」の関係性を規定できることが重要です。

nTech(認識技術)では「1」を規定することで、そこから「2」が生まれる仕組みについても規定しています。それができるのは、イメージ言語と呼ばれる共通体系があるからです。

現実に活用応用できる技術

「1」から「2」が生まれる仕組みを説明できるイメージ言語があるからこそ、nTech(認識技術)は、単なる感覚的な悟りではなく、それを現実に活用応用できる技術だと言えます。

まだまだ力不足は否めない

しかし、残念ながら今現在、この技術を世の中に広めることはできていませんから、正直、われわれの力不足であることは否めません。

全ての人間の無意識の奥深くに眠っている真のニーズを目覚めさせられていないことは本当にもどかしいですし、悔しいです。

人間はみな「自分が何者なのか知りたい」というニーズを根底では持っています。しかし、5感覚と脳を基準にし、この世界を認識しているがゆえに「この体の自分」を自分だと錯覚し、その存在を満たすために一番手っ取り早い「お金を稼ぐこと」にニーズが集中してしまってるだけなんです。

結局は「自分」という存在を確認したいだけなんですね。

暗記言語の限界とイメージ言語

脳の観点を基準に認識している人たちに脳の観点の外側の世界を伝えることは普通できません。概念にないわけですからね。イメージ不可能なわけです。

過去の聖人たちも観点の外側の世界は、例え話を駆使することでしか伝達できませんでした。しかし、結果として、仏教もキリスト教も宗派がわかれていたり、宗教戦争が起きている時点で正しい伝達はできていないことになります。

それはなぜか?

伝達できる言語がないからです。

暗記言語(日本語や英語など)を使っている限り「1」を規定することはできませんから、正しい伝達はできないわけです。

われわれの力不足はあるものの、イメージ言語の差別性は nTech(認識技術)にしかありませんから、粘り強く、認識の次元を高めつつ、発信していくしかありません。

最後に

ちょっと前までは、こういった話をするだけでよくバカにされたものですが、最近はだいぶ受け入れられるようになりました。

日本人は特に、目にみえない世界に対しアレルギーを示すことは多いですし、新しい世界観に対しても否定的な人は多いです。

たとえば、うちの姉なんかは、今でも怪しい自己啓発セミナー呼ばわりしてきます。しかも、なんにも確認もせず、根拠もなく、感覚的にネットの情報だけを信じ、印象だけで判断しています。まだまだ世の中にはこういう人たちが多いことも事実です。

自分の観点の中にハマっていたらイノベーションは起こせませんし、一生、現状維持のまま(=衰退)です。怪しいくらいがちょうどいいのに。。

と、最後はグチで締め括らせていただきました(笑)

たぶん、この記事は10,000文字近く書いてると思います(汗)

長々と、最後まで読んで下さった方はいないと思いますが(笑)もし万が一、いらしたときのために。。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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