こんにちは、みなみです。
質問(Q)と回答(A)は、日常のさまざまな場面でくり広げられています。
コミュニケーションの基本形でもありますからね。
世の中「Q&A」だらけです。
そして、わたしはこれについてよく思うことがあります。
それは、質問(Q)には大きく2通りの意志(依存心と独立心)があらわれるってことです。
もちろん質問(Q)にもさまざまな次元があります。
わからないから聞く「質問」もあれば、たとえば、雑談のなかでふと出てくるような「確認」や「共感」に近いレベルの質問もあります。
なので、ここではわかりやすく「わからないことを質問する」というシチュエーションで考えてみます。
たとえば、質問が明確じゃなかったり、なにが聞きたいのかわからなかったり。。
なんというか「ぜんぶ教えてください」っていう受け身の姿勢がみえ隠れしている質問です。
まぁ、それを言葉で判断するのはむずかしいんですけどね。
言葉の裏側にある意志なので。。
質問が明確になっていて、自分がどこまでわかっていてどこからがわからないのか、境界線を相手に示すなど、能動的な姿勢がみえ隠れする質問です。
とは言え「明確=独立」「不明確=依存」なのかというと、そうとも言い切れません。
だって、ときには独立心をもって、あえて抽象的で不明確な質問をすることだってありますからね。
「依存心」と「独立心」の基準を明確にするって、とてもむずかしいことです。
じゃあ「依存心」と「独立心」の明確な基準ってなんでしょう?
あえて言うならば、基準そのものが「ある」のか?「ない」のか?
やはり、ここがポイントでしょうね。
「基準=固定観念」って言ってもいいです。
つまり、固定観念のある状態だとその観念の範囲内の質問しか出てこない。
固定観念に依存した状態になるわけです。
ようするに。。
固定観念のなかにハマった状態で質問してるのか?(依存心)
固定観念にあえてハマった状態で質問してるのか?(独立心)
自覚しているのか? 自覚していないのか?
この違いでしょうね。
質問には「依存心」と「独立心」のどちらかの意志があらわれる。
このように考えると、やっぱり日々、独立心をもって、相手もしくは自分に対し、質問を投げかけていきたいですよね。
だれかがつくった固定観念に依存した生き方は、自分で自分をコントロールできないって意味ですから。
一時的にはラクだったとしても、次第に苦しくなるはずです。
できることなら、今ここ、つねに独立心をもって生きていきたいですね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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